書評・三八堂

のんびり不定期に読んだ本の感想を書いていきます

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「「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について」高橋源一郎
●先週の読書
・「「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について」高橋源一郎/河出書房新社

 今の日本で、カッコ書きで「あの日」と言ったらあの日しかない。3・11。東北地方を巨大地震が襲った2011年3月11日。この日に東京で生活していた作家の高橋源一郎氏は何をどう体験しどう考えたか、「あの日」を起点とする一年間の記録をまとめた一冊。前半(ほぼきっちり半分)は twitter でのつぶやきを収録、後半はその一年に書かれた小説の冒頭やエッセイやコラム、書評などが収められています。

 氏の twitter については突発的に開始される「午前0時の小説ラジオ」を togetter(twitter まとめサイト)などで見掛けていたので既読のものもありましたが、改めてまとめて読むと地震が発生した後はやはり「書く」「語る」「表現する」ことについて再度考え直すというか、立ち止まって言葉を選んでいる感じがします。

 そう、「あの日」以降誰しもが少なからず、表現することについて立ち止まりました。何が「正しい」のか、何が「不謹慎」に当たらないのか、何が「必要」なのか、書くことは、表現することは何かをなし得るのか。何を書いても不謹慎に当たるような心持ちになり、自然口を閉ざしてしまうような、あの時の。

 しかし一度は口を噤んだ氏も、氾濫する情報を自分のフィルタで選別して取り上げ、つぶやき、書き続けます。無類の親バカっぷりを披露している二人の子どもたちについてのツイートは心を和ませます。そしてその合間合間に挟まれる地震と原発についてのツイートが、読み手の目を災害から離させません。

 後半に掲載された雑誌連載のコラムなんかは、見開き二ページの文章があり文末に(以下、続く)とだけ書かれているものが多くあり、掲載された雑誌では全文読めるところがこの本の読者は冒頭だけしか読めません。興味をひかれる書き出しだった場合には残念な気持ちになりますが、この本の目的は高橋源一郎氏の書き物を読ませることではなく、地震によって影響を受けたり変らなかったりする氏の思考を時系列に沿って並べて眺めることであるからして、むべなるかな(でも大学での講義でも女性ファッション誌を使っているという、女性誌への興味関心についてのコラムは続きが読みたかったぞ)。

 例えば小説を読んだ後のような「何か」が残る感じではなく、ある作家の思考が一年分並んでいるのを眺めるだけの一冊ではありますが、現代作家の中では指折りの、真剣に文学と向き合っている氏の書いたものは、どれか、どこかが、心に引っ掛かります。
| 国内た行(高橋 源一郎) | 01:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
「さようなら、ギャングたち」高橋源一郎
●今日の読書
・「さようなら、ギャングたち」高橋源一郎/角川文庫クラシックス


 ……うー、判らんかった。ちっとも判らんかった。当時凄く新しかったのは判るし、物語の構造は綺麗だし、斬新(そう、斬新と云う評価が最も適当であろう)だと云うのは判るけれど、結局何が言いたいか何を感じさせたいか何を訴えたいかと云う事は読み取れませんでした。

 ディテールに面白い処は多かったです。タイトルにもなっている「さようなら、ギャングたち」は恋人の「中島みゆきソングブック」が僕につけた名前で、つまり物語世界では特定の相手にのみ呼び名を附けるのが普通だとか、第一部のクライマックスにも繋がる設定だけど死ぬ人間には当日の朝に役所から「死亡通知書」(予告状だな)が届くようになっているとか、そう云う点は構成上必要で、そう云うのは面白いんだけど……(以下繰り返し)。加藤典洋の解説で少し理解したような気持ちになるけど、うーんあたしにはまだちょっと難しかったです。いつかこの話とか笙野頼子の話とか判るようになる読解力が附く日が来るのでしょうか。
| 国内た行(高橋 源一郎) | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
「日本文学盛衰史」高橋源一郎
評価:
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コメント:これからも著者には日本文学を牽引して頂きたい

●今日の読書
・「日本文学盛衰史」高橋源一郎/講談社文庫:ISBN; 4-06-274781-2


 文字通り「日本」の「文学」の「盛衰史」……いや、勃興史と言った方が近いかもしれない。この文章を著しているこの日本語、これが、たかが百年程度で確立された表記法であると云う事を知らない人は多いのではないか。自分もその一人でした、この本を読むまでは。

 社会科・歴史で習った云々。
『二葉亭四迷の「浮雲」は日本で初めての言文一致体で書かれた〜』
そんな事、知識でしか知らなかったのだが、四迷がその後の日本文学に果たした役割は非常に大きかった。独歩も大学受験の勉強で「武蔵野」を触ったくらいでちっとも啓蒙されなかったが、当時の日本語は「自然を描写する」と云う、今では普通に思える事が「表現として」無かったのだ。それを初めて成し遂げたのが独歩国木田。無駄な文は一文も無く、筋立てから表現、構成まで含めて明治文学を大成させた夏目漱石。伊達に千円札に顔が出ていません。そう云った感じで明治の文豪が艱難辛苦、日本語の表現を生み出してきたのが小説仕立てで書かれているのがこの本。

 わざと大事な事を外して評価してきたのですが、何が凄いってこの本、明治と平成がパラドキシカルに描かれています。分かり易く言えば、石川啄木は伝言ダイヤルにハマって友人から借りた金を浪費し、田山花袋が「布団」で表現したかった事はアダルトビデオの監督に成る事で成就されようとする(本人の志望は兎も角として)。あからさまに現代の物が混ぜてあることで、却って何が本当の事で何が高橋源一郎の創作かは分かり易いのが救いか。

 ストーリー性を持って語られる前半に比し、後半は散文調と言うか日本語表現に対する姿勢を断片的に切り取った一章読み切りの話が多くなり、あの荒唐無稽な「小説」で魅了された自分としては少々物足りなくなる。しかし特筆すべきは氏の夏目漱石「こころ」論。果たして冒頭の一見意味のない一文は何を示唆しているのか、果たしてKとは誰だったのか。一読の価値はありますよ。

 感想としてはまとまっていませんが、少しでも明治の作家、日本語表現に興味があるのなら読んでみて絶対に損はない一冊。本を読みつけない人には敷居が高いと思うが、あたしはこの小説における、文豪が成し遂げたかった事への現代への振り替え、日本文学の盛衰史としてのアプローチが面白いと思いました。
| 国内た行(高橋 源一郎) | 11:01 | comments(0) | trackbacks(1) |
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