一定期間更新がないため広告を表示しています
書評・三八堂のんびり不定期に読んだ本の感想を書いていきます
|
2014.06.27 Friday
「母の発達、永遠に/猫トイレット荒神」笙野頼子
・「母の発達、永遠に/猫トイレット荒神」笙野頼子/河出書房新社 はい久し振りに笙野頼子読んで頭使いましたよ。思えば第四子妊娠四か月目の産婦人科待合室で紹介状があるにも関わらず一時間半待つ間に読んでいたのが懐かしいね。その時身籠っていた赤子ももう七カ月になりました、って感想に関係ないね。さて「母の発達」の続編です。「母の発達」は母に精神的に支配された娘ダキナミ・ヤツノが母から解放される為に五十音それぞれの母を設定し母を分解して再構築すると云う話で、要旨を読んでもちっとも分からない、本文読んでも更に分からない(人が多いだろうと推測される)小説ですが、これの続編ですよ。2,300 円しましたが迷わず購入したわたしを旦那が白い目で見ていました。だって、帯がね。 殺されても作者は死にません小説も死にません文学も死にませんどんなに消されてもヨミガエレばいいんです。 ダキナミ・ヤツノただいま、帰還しました。 この帯だけで涙に咽びそうになりましたよ些か大袈裟ですけど。俺たちのヤツノが帰って来たよ! 「母の発達」でヤツノは五十音の母を設定しましたが、濁音の母と半濁音の母は設定していなかったんです。故に続編が発生するのですが、これを単に「ガの母はガメラの母やった」等と暢気にやるのではなく、地震と原発と文学討論と猫の介護とその他諸々、作者笙野頼子の身の上と世間に起こったこと全てを絡めて母の設定をするものだからこれぞ文学。 とはいうものの「ぷ」の母をプロメテウスの母にするかプルトニウムの母にするか選挙が始まった そもそも日本語には濁音は兎も角、半濁音の日常語が少ないために外来語は元より韓流ドラマの物語をも織り込んで展開されるその論は圧巻です。まあ好き嫌いは分かれそうですけれど。安寧に物語が収束するかと云うと、ちっともそんなこともないんですけれどね! そして併録の「猫トイレット荒神」です。「母の発達、永遠に」が母に関するものであるなら、「猫トイレット荒神」は父に関する作品、とは言えそんなに父色強くないですけれど。出来れば事前に「金毘羅」の予習があればいいですね。「自分は金毘羅だった」ことを確認し、自分とその由来を読み説く「金毘羅」に対し、今回の「猫トイレット荒神」は自分が金毘羅では「なかった」ことから始まります。えええええ! 違ってたの? 正直「荒神」の方はわたしに八百万の神についての知識があまりに不足しているため難解で理解出来ない個所が多かったのですが、荒神、地神、便所神等の神様たちが作者の身体を乗っ取ってワープロに打ち込んで紡がれた神話を読み、ああいつの時代も真実はねじ曲げられ、後世の勝利者視点で神話すらも構築されているのだわと改めて分かりました。 個人的には、年老いた愛猫と暮らし、その最期の生活を描いた下りはすごく良く分かりました。身に積まされると云うかなんというか、排泄が出来ることがそもそも生き物として奇跡のようなものであり、己の力で排泄が出来なくなった猫になるべく身体的負担をかけないように排泄を促し、それが成功することの純粋な喜び、猫が生きていること時間を共有することの嬉しさ、その描写が一番心に残りました(本文ではそんなに長い個所ではありませんが)。猫じゃなくても人間でも一緒なんですよね。食べること、出すことが出来て人間、出来なくなると「ああ、そろそろかな」と思って、どうにか排泄させられればすっきりして体調も機嫌も上向いて、寿命も延びる感じがするあの独特の様子。ああちょっと私情入りましたね、失礼しました。 あとがきによれば「猫トイレット荒神」は番外編で、シリーズ物として「猫キッチン荒神」「猫クロゼット荒神」「猫シンデレラ荒神」と続くそうですが、今後書かれる「猫○○荒神」は、トイレット連載中に愛猫ドーラを亡くした著者のその後が織り込まれた、現世と猫のあの世を行き来した独特の世界観の小説になることでしょう。 2012.01.12 Thursday
「幽界森娘異聞」笙野頼子
・「幽界森娘異聞」笙野頼子/講談社文庫 森茉莉考察と括るに括れない。余りにも著者の文学的慎重さと大胆さ、一見平易な文に見えるが実際には熟慮の上の文章の広がり……と、分かったようなことを書きつつ実際にこの深さを理解出来ているとは思い難いです。ええと、佐藤亜紀さんの解説が分かりやすかったのでその考え方に寄ってこの読書感想文も書こうと思います。すみません、読解力なくて。 明治の文豪、森鴎外の娘である森茉莉。名前は知っていてもその作品を読んだことのある人は意外に少ないのではないでしょうか。かく言うわたしも未読です。「贅沢貧乏」の書名くらいは知っていても、また耽美の祖などと言われていることを聞いたことがあっても、それで森茉莉を知っているとは言えないのです、その小説を読まない限りは。いや、読んでも理解出来るとは限らないか。そんな著名だが知られていない森茉莉の小説を引用しながら展開する、笙野節効いた小説論? 小説? です。 読書前のわたしの森茉莉知識。なんか耽美な小説の元祖って事は、きらきらしい修辞の多い文章で美少年同士の恋愛を小説にしているのだろう、そして貧乏でありつつも気持ちはお嬢様だったのだろう、と、この程度。その森茉莉、文中では実際の人物と違うと云うことで「森娘」と云う表記になっていますが、彼女を小説中に取り込む笙野氏は、初期よりジェンダーを巧みに織り込んだ小説をモノしているので、一点「性」と云うことで森娘と共通点があるように勝手に思っていました(佐藤氏の解説で気付きましたが、確かに二人の作家の文体は全く異なっています)。 そして、ええそして森娘論は笙野氏の猫騒動と同時に進むのです。これは「S倉迷妄通信」(未読)と「愛別外猫雑記」(既読)に詳しいのですが、「幽界〜」を群像に連載中より笙野氏は、猫が元となる騒動に巻き込まれ東京から引っ越しせざるを得なくなったのです。この顛末が文中に織り込まれ、それがまた森娘の猫スタンスと絡んできたり、登場人物の名前を冠された笙野氏の飼い猫の話と行ったり来たりします。この辺りも読みつけない人にはだらだら書きに見えそうですが、読者がそれぞれの「森娘」像を持つと云う意味に於いて、笙野氏が自分の体験を絡めて論を進めることは納得がいきます個人的に。 うーん、上記文章読んでもこの小説の魅力やスリリングさを伝えられているとは思えないし、自分(笙野氏ではなく、わたし)語りにしかなっていませんね。しかし、面白かったのですよ読んでいて。こう云う小説論もありか、いや、小説論ではなくて、小説、なのでしょうか、難しいところですが、文学についてこう云うアプローチもあるのだなあと感心しましたので。 2011.01.02 Sunday
「金毘羅」笙野頼子
●新年の読書 喪中ですので新年のご挨拶は失礼して、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。昨年末に bk1 のポイントを失効させるのが忍びなく、駆け込みで二冊本を書いました。 ・「クリスマスプレゼント」ジェフリー・ディーヴァー/分春文庫 優れた短編が読みたかったのです。前者はミステリですが。 さて「金毘羅」です。色々と、そらもうたっくさんの感想を書きたいのですが、どこから手を着けて良いか分かりません。あらすじとしてまとめるのも難しいのですが書いてみます。 自分が金毘羅であると気付いた作家の叫びについての小説です。 うーん、書いていて正しいように思えない。「金毘羅だ、わたしは金毘羅になった!」と叫ぶのが笙野頼子個人の叫びであるのか、読者(わたし)が物語世界に取り込まれてそう思わされているのか分かりません。主人公を作者の想像によって形成された、笙野頼子ではない一作家と読むことも可能ですが、主人公が笙野頼子本人であると思わされるような、彼女の文学界での過去の闘いも年代記の中に丁寧に織り込まれているし、もう分かりません。本人が大まじめに書いているとすれば、自分が神であるとある時気付いた作家の乱心を「系統立てて」書いてあるので狂気の小説ですが、笙野頼子が読者に笙野頼子と錯覚させるような作家を主人公として己が神であると気付いたことを俯瞰して、社会からの女性抑圧を日本の歴史上の神仏習合/廃物希釈に絡めて金毘羅を信奉することで納得したという筋書きを計算ずくで生み出したとすると傑作です。あ、書いていて分かった、後者が正解だ。計算ずくの小説だ。伊藤整文学賞受賞出来て良かったなあ。 わたしは日本の神と仏には本当に疎くて知らないのですが、小説の殆どの部分は日本の八百万の神についての記述です。歴史の都合で存在を消された神々や、神の習合、仏との関係、各有名神社仏閣の由来や縁起について、主人公が自らの神を求める途上でそれらを遍歴し、まとめるともなくまとめています。自らの神を探す旅に託して、国家がいかに神を都合の良いように選び、祭り、削除してきたかということを、文壇(或いは世間)における女性純文学作家への弾圧と絡めて描いているのです。ああ、文字にすると分かってきた。そういう作品だったんだ、うん。 これの前に読んだ笙野作品が「レストレスドリーム」だったので、それに比べれば大層読みやすく分かりやすい作品だと思いますが、上記のような深遠な「小説の試み」を理解するにはわたしの文学的素養や一般教養が充分でないと思います。今作品を笙野作品最初の一本にするにはハードルが高いので、他の笙野作品を読んでから手を着けることをお勧めします。と言って、最初に何を読めばいいかなあ。「タイムスリップ・コンビナート」とかは更にハードルを上げるだけのような気がするので、河出書房の「笙野頼子三冠小説集」または、講談社文芸文庫の「笙野頼子初期作品集」(一般書店では入手困難かも)で門を叩いてからお取り組み下さい。 2008.11.05 Wednesday
「レストレス・ドリーム」笙野頼子
●本日の読書 悪夢をこれほど「悪夢らしく」文章化した小説が未だ嘗てあっただろうか。 桜散る悪夢の町、スプラッタシティーを舞台にゾンビたちと戦い続ける桃木跳蛇。レストレス・ドリーム、レストレス・ゲーム、レストレス・ワールド、レストレス・エンドの四章立てで構成されたこの小説「レストレス・ドリーム」は、悪夢に託して、日本語で文章を書くこと、言語体系、ジェンダーについて飽くなき戦いを挑み続ける作者の考えが小説と云う形を取って表現された空前絶後の一冊である。 スプラッタシティーで跳蛇が戦うゾンビたち、レベルアップして移った戦いの場である階段地獄、理想の美女アニマと最後のボスである王子。跳蛇の武器は形は変われどいつも言語を操るものである。文庫表紙のミルキィ・イソベの絵で気付いたのだが、跳蛇と云う名前に含まれた「蛇」、階段地獄の螺旋構造から連想されるDNAの螺旋構造は、笙野頼子のDNAに「言語で戦う」旨がインプットされていることを仄めかしている。 と、小説の解説風に自分なりの解題をしてみたのだが、この作品は小説(物語)として読むにはやはり難解だと言わざるを得ない。単に秩序のない変な空間で変な名前の女性が変な方法で戦っているのを延々と描写してあるだけなのだ。全編を貫く著者の強烈な覚悟を、この妙なRPG風の戦いから読み取るのは困難である。敵を倒すには、敵を攻撃する言葉ではなく、ある時は「女」と云う言葉を残らず別の言葉に置き換え、ある時は敵同士を争わせるような言葉を入力して打ち出し、ある時は敵を蔑みと、その場面場面で戦い方は一定しておらず、それはそのまま日本語で文章を書く時に相手と媒体に応じて文章を変化させなくてはならないと云う小説家のスタンスを表している。 最も読み応えがあるのは終章「レストレス・エンド」での戦いの終結であるが、これも色々な解釈が成立すると思われる。或いは呆気なく感ずるその結末だが、怒涛の戦いの後にこの結末を読んで私は、不思議と清々しい気持ちになった。言語を武器に戦うとは、なんと覚悟のいることか。 2008.10.16 Thursday
「母の発達」笙野頼子
・「母の発達」笙野頼子/河出文庫 ISBN : 4-309-40577-0 再読したいーしたいーと言って、再読しました。やっぱり訳が分からない中にも物凄いパワーのある一冊でした。一言で言えばシュール。うん、最初に読んだ笙野作品がこれで良かった。 母による絶対的権力の下で抑圧されて育った娘が、女性、母を徹底的に解体し、再構築すると云うジェンダーに関する小説なのですが、それが非常にシュールな表現で書かれている為に読者を選びます。「母の縮小」「母の発達」「母の大回転音頭」の三篇から構成されているのですが、最初の「母の縮小」を受け付けない人は続きを読んでも受け付けないと思います。 「母の縮小」は、母による抑圧から逃れられない娘が、母を縮小する事で自分の意のままにあやつり、その支配から逃れると云う筋ですが、そもそもどうやって母が縮小するものか。作中ではある時いきなり始まるのですが、併せてワープロの中の「母」の文字をどんどん縮小掛けていったり、かと云って小さくし過ぎると分裂したりと、これだけ読んでいると本当に訳が分かりません。 「母の発達」は、「縮小」から一気に数十年の月日が流れていす。母に「あ」から「ん」までの五十音を頭文字とするそれぞれの名前をつけて母を発達させるというお話で、具体的には『「あ」のお母さんは悪魔のお母さんやった』と云う風です。ははは、訳が分からないでしょう。 母に付けられる名前は、悉く世間一般の母や母性や女性のイメージから遠く離れたものばかりです。ここがこの話の重要な部分で、作者は母にイメージとかけ離れた名前を付ける事で世間一般の優しく暖かく柔らかい女性性、母性から母及び女性を解き放つ事を目論んでいると考えられます。そう云う事を念頭に置いて読むとこの前衛的な小説は文学になるのですが、置かないで読むと却って面白く、また痛快です(少なくとも私はそう感じたので。万人がそう思うとは言えませんが)。現在では入手しにくい本ですが、変わったものを読んでみたい人にはお勧めします。 2008.09.18 Thursday
「極楽・大祭・皇帝」笙野頼子
・「極楽・大祭・皇帝」笙野頼子/講談社文芸文庫 旦那に「なんで笙野頼子の小説が好きなの?」と聞かれて答えられませんでした。 出産したら暫くは身体や目を休めなくてはならない、即ち一ヶ月間の読書禁止令が出るので(新聞とかテレビは少しであれば大目に見て貰うつもり。本当は駄目なんだけど)、前駆陣痛が来ている中で大急ぎで読了しました。「極楽」はデビュー作品で群像新人賞受賞作、「大祭」は受賞後第一作、「皇帝」は初の長編です。 今まで読んだ笙野作品の中で、最も読み易かったです。それでも「皇帝」は気合いが要りましたが。そもそも笙野作品が何故読みにくいとか難解と言われるかと考えると、隠喩が独特であるからだと思われます。例えば「母の発達」で五十音のお母さんを創造する事は何を意味しているのか、「タイムスリップコンビナート」で何故マグロから電話があるのか等は、単に読み進めるだけではそれが何を伝えたい為の表現なのか分かりません。答えは各読者が探します。勿論作者は意図を持ってそういう表現をしているのですが、発想が突飛であるので伝わりにくいのです。 そう云う点でこの初期三作は現実に起こり得る状況の描写が続き、人物の心情、ストーリーの流れが読者の想像の範疇に収まっている為、理解しやすいと考えられます。分裂した母がくるりくるりと大回転したりはしないのです。 どの作品もねちねちした人間の執着を描き、憎しみがそこかしこに見られるものですが、その醜さ汚らしさが人間の人間たる由縁で小説になり得る題材ですので、それを見つめて膨らませ、昇華させた笙野頼子はやはり凄い書き手だと思います。冒頭の旦那の問いにはこう答えます。 笙野作品は人間の醜いところを独特の表現で描いていて面白いから。 2007.03.23 Friday
「笙野頼子三冠小説集」笙野頼子
・「笙野頼子三冠小説集」笙野頼子/河出文庫 ISBN : 4-309-40829-X 何てお得な一冊なんだ! しかし、読む人を選ぶ。 第十三回野間新人賞を受賞した「なにもしてない」、第七回三島由紀夫賞を受賞した「二百回忌」、第百十一回芥川賞を受賞した「タイムスリップ・コンビナート」の三篇を、新しく受賞した順に収録(つまり「タイム〜」「二百〜」「なにも〜」の順な)。初めて笙野作品を読む人に対しては、冒頭の芥川賞「タイムスリップ・コンビナート」が最も敷居が高いと思うので、これを読み切れれば後の二作は比較的読みやすいかと思う。だっていきなりマグロから電話が掛かってくるし。芥川賞の選評で宮本輝氏が「何が悲しくてこのような作品を読まねばならないのか」と書いた気持ちは、分からないではない。 しかし私は笙野頼子の作品群を、ある種の畏敬の念で持って読む。好きかと聞かれれば好きと答えるが、理解しているかと問われれば首を傾げるだろう。難しいのである。作品に込められた意図や主張はぼんやりとは分かるのだが、全てを分かって「ああ何て深遠な作品だ!」と言う理解力は、まだない。多くの作品はフェミニズムであったり文筆業を営む独身女性が社会からどのように見られているかと云った生きにくさだったりを描いているのだが、その喩えとして主人公(多くの場合、作者を想起させる中年女性作家)が出遭う理不尽さや困難、またはスラップスティックコメディーかと思われるくらい滅茶苦茶な状況の「どこ」が「何」の暗喩なのか、分かりにくいのである。読解力不足である、嗚呼(詠嘆)。 個人的には「なにもしてない」に感銘を受けた。本当に「なにもしてない」女性が両手の皮膚病と闘い、夢分析をし、皇族の方々の映るテレビを見ているだけなのだが、読ませる。内容の九割方は女性の自己分析だったり手の状態の描写だったりと、時間も場所も移動しないのにこれだけの内容でこれだけの文章が書けると云うのが凄い。万人受けはしないだろうが、やはり笙野頼子の作品は好きだ(とか言いつつ、作者も難解と云う「水晶内制度」は途中で止まってるが)。 2006.07.16 Sunday
「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」
・「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」笙野頼子/河出書房新社 ISBN : 4-309-01758-4 作家、八百木千本。八百本の木を千本と言うくらいには嘘を吐く小説家であるところの彼女は、現在とある処に監禁されており、いつかは分からないが近い内にその存在を消されて仕舞う、と云うところから物語は始まる。 八百木千本と言えば「説教師カニバットと百人の危ない美女」と云う、女性の容貌とその処遇についての作品(凄く乱暴な説明なので、興味の有る方はお手に取って頂けると宜しいかと)に登場した、美しくない事を武器にして小説を書く純文学作家であるのだが、何かにつけて闘い続ける笙野頼子の分身とも言うべき彼女が今回闘っているのは「知と感性の野党労働連合」(略して知感野労。素晴らしい)。この知感野労、タコグルメと云う人物を頂点とする実質与党の野党で、ロリコンを至上主義としており、物事について分からなければその言葉を括弧で括って話をすり替え、さももっともらしいように言いくるめる事でのし上がって来たらしい。括弧にくくって話をすり替えると云うのは例えば『この文章はこの本の「評論」である』と書けば、その内容が所謂ところの評論になっていない事を指摘されても「カッコが付いているから本来の評論とは違うものですよ〜」と言い逃れが出来ると云う仕組み。 で、この本は書いてある事を額面通りに受け取ったのでは分からない。八百木千本が闘う所の知感野労は、笙野頼子闘う所の文壇であり、暫く前に「徹底抗戦! 文士の森」で描かれた漫画原作者・大塚某氏とのやり取りがその下地にある。具体的には大塚氏が文学を「文学」と表現し、文学作品を読まないと断った上で「「文学」がやったことは全部漫画がやっている」と言ってのけた事を指している。それまでは大塚氏の本も数冊読んで悪い感情を持っていなかったあたしも、この発言で一気に俺株急落。そして笙野頼子がこの作品でやっているのは、莫迦にされた文学を、己の書く文学作品の中で取り込んで反論すると云う、作家であるから出来る事。至極正しい対抗方法だと思います。ただそれが人口に膾炙する本になるかとか、そう分かって読む読者がどれだけいるかと云う事は一つ、加味しておかなければならないのかも知れないが。 本の内容に触れずに長く書いたが、表題作よりは書き下ろしの「八百木千本様へ笙野頼子より」を読む事で理解が深くなると思われる(逆に言えばこの短篇が内容のフォローになっている)。本編は八百木千本と、正体の見えない知感野労との抗争を千本視点から書いているのだが、結末に少々驚く。確かに落とし方は思いつかないけれど、この終わり方は何を示唆しているのだろうか。いきなり論争が向こうから打ち切られた事? この本をいきなり読むのではなく、先に「説教師カニバットと百人の危ない美女」「徹底抗戦! 文士の森」を読んでいたのは良かった。 2006.01.21 Saturday
「愛別外猫雑記」笙野頼子
・「愛別外猫雑記」笙野頼子/河出文庫 ISBN : 4-309-40775-7 これは単なる猫エッセイではない。猫を媒体として描かれる、笙野頼子の闘いの記録なのである。 この本を読むまでは、笙野頼子が猫好きだと思って憚りませんでした。間違っていましたすみません。笙野頼子に取って猫は同胞なのですね。 で、猫。あたしは猫好きですが、生まれてこの方哺乳類を飼育した事が無く(飼った事のあるペットは金魚のみ)、ペット事情など知りもせずまた知ろうともしなかったあたしに取って、これによって知る驚きの「人間性」。猫=可愛いと云う等式は考え無しに用いてはならない。猫嫌いな人は野良猫に平気で毒を撒くし、ゴミ捨て場が烏に荒らされていても近所の猫持ちの家にケンケンと苦情を申し立てる。それと、猫への迫害を減らす為に可哀相だと思っても去勢は必要だし(実情を知らずに「可哀相」と喚き立てる方が将来的に猫に取っては可哀相な事になる)、可愛いからと言って野良猫に簡単にエサをやってはいけない。 これは単なる猫エッセイではない。猫を媒体として描かれる、笙野頼子の闘いの記録なのである。最終的に彼女は貰い手のつかなかった猫三匹を引き取り、雑司が谷のアパートから千葉のS倉の一軒家に引っ越す。猫騒動が無ければ行われなかったであろう引っ越し。心無い人から同胞を守る為の闘い。壮絶である。 この本によってあたしは、共同体の中で責任を持って生きる事を考えました。月並みな感想ですが、人と人の中で生きるって、大変だよ。 2005.12.18 Sunday
「徹底抗戦! 文士の森」笙野頼子
「徹底抗戦! 文士の森 〜実録純文学闘争十四年史〜」笙野頼子/河出書房新社 ISBN:4-309-01712-6 内容はタイトルそのままなんですが、そもそも純文学闘争とは何ぞや。それは下の記事を読んで頂きたいのですが、或る漫画原作者が「売れない文学誌は売れている漫画週刊誌の収益で作っている」だの「純文学で書かれている事は、漫画がみーんなやっちゃった」だのと新聞コラムだの文芸誌の座談会などで言い、それに対する純文学側からの説明文をまとめたのが本書。十四年、長いよなぁ。 漫画と小説は違うものだからどちらが上とか高尚とか此処で自分の考えを述べる気はありませんが(どっちも好きだし)、漫画が文学の全てを「既にやっちゃってる」事はその開始時期から考えて絶対に有り得ない事だし、また文学誌の収益が上がらないからと云って、しかし文学は一つの藝術であり、また文化でもあるので、それを出版している出版社は文化的貢献の面で社会的役割を果たしているのもまた事実(とあたしは思う)。出してる文芸誌で出版社を測るのは自分はやりますが一般的にはどうなんでしょう。だもんでその立場では大塚某氏の考え方は嫌いです。 で、笙野頼子。文芸誌での論争は嫌われるものだから、論争の文章にも物凄い規制コードが掛けられて、故にそれを掻い潜って自分の言いたい事を書き込むものだから論争文のクオリティ上がりまくり。経緯を知らない人にも流れが分かり、しかも読み物としても面白くなるようにとの作家たる努力が凄い。いや本当に面白いんですよ。抜粋。 やりあっている相手は本当に詰まらない連中である。しかし、汚物から飛んで来る凡庸なハエや蚊を標本にして並べるだけでも、それがセンスのいい研究者だったら、意味のある発表や発見をするのである。 (同書 p3 前文より抜粋) 以降、相手の欠点を突きながら時に辛辣に時に慇懃無礼に相手をおちょくりつつ攻撃する様は面白い。大半は大塚某氏の理論破綻を叩いた文章で、後半は柄谷行人批判や文学賞の選評等なので、前半の方が勢い良く読めます。言葉は非常に悪いですが、下に見ている人をけちょんけちょんに攻撃している文章が一番面白い。あと、この本を読むまで文学史に於ける女性の作品の無視されっぷりには気付きませんでした。そういや結構スルーされているよなぁ。そもそも「女流文学」と云う書き方自体が男性を上に見ていると言われれば、あ、そうねと思えます。 何しろ長いので万人にお勧めは出来ませんが、現状ではこの論争の為に執筆の仕事が無くなった群像も編集長が変わって再び書けるようになり、過去認めていた新人作家が各種文学賞を取るようにもなり、と光が差してきているのですが、笙野頼子曰く「また絶対に何かある」だそうなので、それが文学の流れを阻害しない動きであることを望みつつ、感想といたします。 1/1 |