書評・三八堂

のんびり不定期に読んだ本の感想を書いていきます

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「薄情」絲山秋子
評価:
絲山 秋子
新潮社
コメント:地方民が総じて薄情かと云うとそうでもないが、薄情でないとは言えない。

●本日の読書
・「薄情」絲山秋子/新潮社

 好きだなあ、この感じ、好き。しかしわたしの中のその「好き」感情を、他人に分かるように説明することは絶対に出来ない確信がある。

 わたしは生まれも育ちも北陸で、実家を離れた大学時代も北陸住まいだったため、純粋培養の北陸女です。他の地域に長く住んだことがない。だから「地元にいる人」が「外から来た人」に向ける、悪気も差別意識もない、だけどどうしようもなく生じている消すことの出来ない落差の感情が良く分かります。それは劣等感でもあり区別でもあり、そしてどこかしら優越感が混じることもある、薄いのに決して消えない境界線です。北陸しか知らないわたしは、日本の中でも北陸人は地元意識がとても強いと思っているのだけど、群馬を舞台にした「薄情」に描かれる地元意識も北陸のものととても似ていて、でも関東に近い分少しだけ成分が違っていて、共感したいような染まりたくないような不思議な気持ちになりました。

 好きなところは物語の始まり辺りに割と集中していて、中でも一番好きな表現が以下。抜粋します。

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 こいついいサイコロだな、と宇田川は思った。きちんと1から6まで目が出るサイコロだ。
 なぜそんなことを考えたのかはわからないが、人間関係はかけ算だなあ、とつくづく感じていたのだった。つまらない奴とつき合えばつまらない勘定になるし、分不相応なつき合いをすれば払いきれない。

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 これは主人公の宇田川が高校の後輩である蜂須賀(女性)を評した言葉ですが、宇田川は定職に就かず親類の神社の手伝いと嬬恋でのキャベツ収穫を半年ターンでこなしている自分を、地元にも定着せず完全に出ていく訳でもない放浪の存在と認識しており、それ故に地域のイメージと結びついていない特色の薄い景色の「どこでもないような場所」に惹かれています。先のサイコロの喩えはこの後、宇田川が自分を「0と1しかないサイコロ」とし、誠実であるためには1の目を出すことだが、それを自分でコントロール出来ない、とする表現が続きます。わたしは自分をそのような目で見たことがないけれど、このサイコロと云う表現がものすごくしっくり分かるし、そう云う特定の出目しか持っていない人がいることも経験で知っています。こんな感じの「あああそれ」って文章とぶつかるので、小説読みは楽しいです。殊に絲山さんの小説はわたしにとってそれが多い。

 宇田川が好んで立ち寄る場所に通称「変人工房」と呼ばれる場所があります。木工作家の鹿谷さんが居るその場所はもとは木工所で、それを鹿谷さんが借りて作品制作のアトリエにしています。都内から移り住んでいる鹿谷さんの変人工房に出入りするのは、地元に強く根差している農家のおじさんだったり、少しだけ浮世離れしている図書館のおばさんだったり、美容師の関君だったり宇田川だったりと色々ですが、総じて世間から外れ気味で、また外れることを厭うていない人ばかり。そのコミュニティにふらっと立ち寄り、残りの半年は嬬恋で地獄のようなキャベツ収穫をするのが宇田川の一年の過ごし方です。

 鹿谷さんは都内出身なのですが、変人工房に集まる人は地元でも外れた人たちなので、前述の「外の人に対する線引き」には襲われていないように見えます。芸術家でもある彼を尊重し、憧れる気配が漂う描写は、ある種劣等感の表れに思われる、というのは地方民の卑屈さでしょうかね。物語は宇田川、蜂須賀、鹿谷さん、変人工房に集まる人々などを渡り歩いて予想外のところへ転がるのですが、群馬弁がふんだんに表れる物語を北陸のそれに置き換えて読み、嫌気が差すような、愛おしいような、哀れなような、同族嫌悪に似た不思議な感情を抱えておりました。思ったのと全然違う最後がまた、好きでした。何事も予定調和はしないのが、非常にリアルでした。

 

 そうそう、富山では県外からの移住者を「旅の人」って言うんですよ。何年住んでも家建ててもずっと「旅の人」。ひどいよね。

 

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| 国内あ行(絲山 秋子) | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
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